私が葬儀屋になった訳

なんてかすごいタイトルになっちゃいましたが・・・これが当社のルーツ(?)でございます。
しばらくお付き合いの程をお願いいたします。

私の両親は、ここ数年で3年おきに立て続けに逝ってしまいました。
父が先に、そして3年後に母が・・・。自分は長男でもあり、一応「喪主」の立場にはいましたが今思い出してみてもやっぱりだらしない喪主でございました。
何よりも悔いているのは、それぞれの葬式がどんなものであったか全く覚えていないほど支離滅裂な状態で事が進んでしまったことです。
父の時には、それはそれは寂しいお葬式でした。人生の苦水を味わった父には友人も少なく、親族も地方で、本当に身近な者だけでの見送りとなりました。
それでも葬儀が終わるまでの数日間、たいした記憶がありません。ただ今になって思うのは、当時の状況と実際に行った葬儀、あまりにも不釣合いでした。
もっともっと安い金額でできる方法があったのです。最近、当時の見積もり書を再び眺めて愕然としました。ひどいものです・・・・。ちなみにこの時が私の初喪主経験でした。

そしてその三年後、母が他界いたしました。
父に先立たれ、生前、かねてより離婚まで考えていた母は羽を伸ばす間もなく、皮肉なことに父と同じ胃がんでした。実は私は類まれなほど母にかわいがられておりました。
子供の頃から異常な程のかわいがられ様で・・・俗に言う過保護・溺愛ってやつですね・・・その反動もあり、早くから道をはずれ、家を飛び出し一人暮らしをしておりました。二十歳も過ぎるとある程度落ち着きはしたのですが、母親からみた私はいつまでたっても子供であったと思います。度重なる心労、気苦労、父親の看病・・・・そんな母親の姿をろくに知らないまま、このバカ息子は勝手気ままをやっておりました。

その母が病床に伏し、医師からの終焉宣告を聞いてからというものは、できる限り母のそばにいてやりたいと思い仕事の合間をぬって看病に通いました。
私には二つ違いの妹がおり、どこの兄弟も相場は、上はどまぐれ下はしっかりもの・・・当家も決して例外ではありませんでした。そんな彼女は、素晴らしい伴侶とともに郊外に中古の一軒家を購入、母を迎え入れるべく家中をバリアフリーにリフォームしてくれたのでした。くしくも母が入院したその年でした。それもあって、母は妹夫婦の新居のすぐそばに身を寄せたのでした。引越しも済ませた年末、医師から外泊許可をもらった母は、自分の念願であった「一軒家の持ち家」に床を移したのでした。1999年12月31日の夕方でした。病院の計らいで、緊急用にと酸素ボンベを携えて、新年を妹夫婦の新居で迎えるはずでした。

私は地元で仕事を済ませ、最後になるかもしれない家族での年越しの集いに向かう途中でした。大晦日の大渋滞にいらいらしていると携帯がなりました。
「おかあちゃん、具合悪いから、病院に戻すよ・・・」

結局母が念願の「持ち家」にいることができたのはほんの数時間のことでした。
もうすぐ近くまで来てるのに・・・・・・車を病院の方向に向け走らせ、私の車が病院に到着するのと、母を乗せたタクシーが到着したのはほぼ同時でした。
病室は5階・・・覚えていますでしょうか?1999年大晦日、世の中は2000年問題で揺れておりました。
その病院も、12月31日午後11時55分から年明けの0時05分までの間、エレベーターが止まっていたのです。母を背負って上る階段の長かったこと・・・・・

「いつのまにこんなに軽くなっちゃんたんだろう」

そんなことをぼんやりと考えながら、一歩一歩階段を上っていきました。
そして、そのとき母の頭にしっかりと毛糸の帽子が乗っていたのを、今でもはっきりと記憶しています。
年末近くになって、外泊を楽しみにしていた母に私が近所のスーパーで何気なく買って「クリスマスプレゼントだよ」って渡しました。
「あらま、あんたがあたしにプレゼントなんて気味が悪いわね」と言いながらも嬉しそうに受け取った母。
外泊のときもしっかり肌身離さず同伴していたようです。
そして様態悪化の末、病院に戻る際に「あの子に貰った物だから」と朦朧とした意識の中でも忘れずにしっかり持っていたという話は、後から聞かされました。

自分では、ホントに何気なく買った毛糸の帽子でしたが、母にしてみればとても嬉しかったんだと思います。

母は1月3日夕方、永眠いたしました。
元日以来、病院に詰めっぱなしの私に「仕事は大丈夫か」と気遣い、危篤を迎える日の昼間、私にこう切り出しました。
「あんた、今の仕事も大変だけど、葬儀屋さんになったら?昔からあんたにそう言ってたのどうせ覚えちゃいないでしょ」
「は?なんだよいきなり」(そういえばそんなことを言ってたっけ・・)

正直それを聞いたとき「人様の葬式の心配してる場合じゃないだろ」・・と訝りました。さらに追い討ちをかけるごとく
「人様の役に立たないでどうするよ。あんたみたいな人間はね、何も考えなきゃ世間様の厄介者になるだけなんだよ。
お役に立つことを考えなさい。」
「・・・・・・・・」
すべてを見透かされているようなこの言葉には、正直かなり堪えました。そして・・・・・

「あんた、ちゃんとご飯食べてる?ここに(病院に)ずっと居てくれるのは有難いけど、ちゃんと食べてね・・・」
自分はすでに固形物を飲み込む力もなく周りから心配されているにもかかわらず、母はこの期に及んで私の食事の心配をしておりました。

「こんな時にまで息子のことを心配しているのか・・・・」

そう感じた瞬間、頭の中には後悔と懺悔の念だけが渦をまいておりました。取り返しの付かないことをした・・・・愛情を注いでくれた両親が、ろくに恩返しもできずにこの世を去ろうとしている
そのことが一気に現実味を帯びたとき、目の前が真っ白になったのでした。

その日の夕方、静止をさまよう母のベッドの脇で医師が私たち兄妹に尋ねました。
「酸素マスクと気道確保でかろうじて命をつないでいます。これ以上どうすることもできません。あとはお二人の意思次第です」
気道確保のために首を後ろに反らせ、苦しそうに息をしている母を見ていることは耐え難いものでした。
「頭を戻せば、母は楽になるのですか?」
「はい」
「おふくろ、どうする?もう、いい、かな?」
握っていた私の手にはっきりと返事が返ってきました。
断腸の想いという言葉がありますが、まさしくこのことなのでしょう。
「ありがとう。いままでほんとうにごめんなさい。お疲れ様でした」
そう言って、母の枕をいつもどおりに戻してやりました。
そして何度も何度も、今までの親不孝を詫びたのでした。もう遅いということを知りながら・・・
数分後・・・
母の顔からは苦悶の表情が無くなり、いつの日にか見た優しい、穏やかな母の顔に戻っておりました。

この数分間、私はあの名台詞「走馬灯のように」を、この身をもって体験いたしました。
正月三が日(1月3日)に死亡ということで、葬儀まではだいぶ日が空いた記憶があります。
なんだかんだとバタバタしているうちに、よくわからないまま葬儀が終わりました。

そして月日がたち、母が残した私への言葉
「人様のためになる葬儀屋さんになりなさい」
時間はかかりましたが、やっとその言いつけを実行できるようになりました。

目指すのは、「ご家族の記憶に残るご葬儀」

私は両親の葬儀をよく覚えておりません。
その自分の経験が生かせれば、必ず思い出に残る葬儀ができるはずと信じております。
そして・・・
「利益の追求を一番に考えるな。お客様に喜んでもらえれば、それは後から必ずついて来る。そして人も育つ」
昔、成功を収める諸先輩方が口を揃えてこう教えてくれました。

葬儀を出すお客様にとっての「喜び」・・・・・
それはきっと、、お客様のよきパートナーたるプロフェッショナルに出会うということではないでしょうか。
実際、葬儀社選びがお式の良し悪しを決めるといっても過言ではありません。

更に申し上げるならば、お葬式の良し悪しとは・・・・・?
お客様にとっては、御当家の葬儀が良かったか悪かったか・・比べる物がないので、なかなか判断できないと思います。
でも、葬儀屋にはそれがわかります。
そしてもうひとつ、お客様にとって一番不幸なのは、私がそうであったように、
「どんなお葬式を出したか良く覚えてない」
ということではないでしょうか?
確かに喪主様の任務は過酷です。しかも不慣れなことばかり。でもせめてどんなお葬式を挙げてあげたか、
覚えていられるだけの「気持ちの余裕を作れるかどうか」は私たち葬儀屋にかかっているのです。
お式が終わった後
「ありがとう、お陰でいい葬式ができたよ」
この言葉こそ葬儀屋冥利に尽きると思います。
母の遺言に導かれ天職を見つけた今、どんなお葬式でも「ありがとう」と言われる葬儀屋を目指します。
「自分の葬式を頼みたいと思える葬儀社」と言ってもいいかもしれません。

長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

(株)あしたばヒューネスト若かりし頃の母です(だっこされているのが私でございます)

お時間のある方はこちらもどうぞ・・・3月にラジオに生出演したときの収録です。ご葬儀について、少し語らせていただきました